音環境を理解するための10章 その10

共感覚③新古今和歌集に見る日本人の感覚~

「梅の花 にほひをうつす 袖の上に 軒洩る月の かげぞあらそふ」

新古今和歌集は鎌倉時代初期に編纂された歌集ですが、これはその中の一首です。

内容は、
春の初めの夕に縁側でくつろいでいると、梅は良い香りをして、月も荒れ家になってしまった我が家の軒の裂け目から届いて、私の袖の上では梅の香りと月影が戯れています、と読み取れます。

「軒(のき)洩る」というのは、味わいのキーポイントで、屋根を修理することもままならないみやこ人が、破れた軒先から洩れくる月影の風雅を楽しんでいる、と読み取れます。

味わい深い一首ですが、「梅の香りと月影が争う」と、よく読むと嗅覚と視覚の世界がごっちゃ混ぜになっていて、おかしな和歌です。

しかし、ここに日本人の五感のルーツがあって、日本人と西欧人の五感の感じ方の違いを読み取ることができます。
今回は、そんな五感についての古来からの日本人の感じ方を考えていきましょう。

人体が感じる生理的感覚ですが、西洋ではどうだったかというと、すでにギリシャ時代から分類されていて、五感という分類の仕方はアリストテレス(紀元前384年〜前322年)による分類が現代に引き継がれ通念となっています。

一方、日本ではどうかというと、古今和歌集の時代には五感と言う分類がなかったようで、嗅覚も視覚も同じ感じる、感覚として捉えられていたようです。
嗅覚は、匂い
視覚は、見る
聴覚は、聞く
ですが、これらが「訓読み」であることに注目してください。

それら五感の総体をひっくるめた表現の、「五感を、感じる」という表現の「感(カン)じる」のカタカナ部分は音読みで、音読みの部分は、大陸(中国)からきた言葉です。
年代的にみると、「感」は奈良時代か、平安時代ぐらいにかけて日本に入ってきたようで、その頃から五感の分類ができてきたようです。

上記はNHKラジオ番組で能の演者が、「日本人の共感覚の世界」を語っていた中での話で、日本語は古代より共感覚的な言語だ、と言っていました。
このラジオ番組での共感覚の内容には、名前や地名などでも色など五感を連想するという話などがあり、前回のイギリスのジョン・ハリソンの著書「共感覚、もっとも奇妙な知覚世界」よりも、「共感覚」という言葉を広範に使っていました。
「共感覚」という述語で日本の文学や古典芸能などの世界を理解しようとしている人達がいることがわかり、心強く思いました。
能の演者が、ここまで理解して能を演じているとすると、古典芸能にもなかなか深いものがあるな、と感じたのです。

こんな話から日本の古くからの意匠や書画、美術の世界に想いを巡らすと、それらに見る五感との関わりに、日本芸術の鑑賞に、また新たな視点がありそうです。

萩原光男